01 Prologue Rena 1

20X4年2月13日(火)

朝のやわらかな光がカーテンの隙間から差し込み、藤崎家のリビングを淡く照らしていた。
食卓には朝食の名残がまだ残っていて、どこか慌ただしくも、いつもの家の空気が漂っている。

「おはよ〜……」

寝ぼけ眼のまま、妹の優菜がふらふらとリビングに入ってくる。
足取りはおぼつかず、今にもそのまま倒れ込みそうなくらい頼りない。
髪はあちこち跳ねたままで、目も半分しか開いていなかった。まだ夢の中にいるような表情だ。

「おはようじゃないわよ、今何時だと思ってるの?」

母が呆れたように声をかける。その声に責める響きは強くないが、毎度のことなのだろうという諦めまじりの調子があった。
時計に目をやれば、すでに朝食の時間もとっくに過ぎている。

「まだ間に合うよ〜……」

優菜はそう言いながら椅子に座るより早く、テーブルにぐったりと突っ伏した。
頬をぺたりと天板に押しつけたまま、のんびりとした声だけが返ってくる。
どう見ても、まったく間に合っていない。それなのに当の本人は少しも焦る様子がなく、そのあまりにマイペースな姿に、玲奈は思わず口元をゆるめた。

呆れと微笑ましさが入り混じった空気の中で、玲奈は静かに制服の襟を指先で整える。
乱れがないか確かめてから、そばに置いていたバッグを肩にかけた。
朝の支度を終えた身体には、家を出る直前の小さな緊張感が自然と宿る。

「それじゃ、私はそろそろ行ってくるね」

そう言って玲奈が玄関へ向かいながら声をかけると――

「気をつけて、行ってらっしゃい」
「いってらっしゃーい……ふああ……」

母はいつもの優しい声で送り出し、優菜はテーブルに伏したまま、欠伸まじりにひらひらと手を振る。
その気の抜けた見送り方が妙に優菜らしくて、玲奈は小さく笑った。

「行ってきます」

その一言を残し、玲奈は家を後にした。背中にまだ家のぬくもりを感じながら、いつもの朝の空気の中へと踏み出していく。


家を出た玲奈は、冷たい朝の空気の中で肩にかけたバッグの位置を直し、そのままマンションの二つ隣の部屋の前まで歩いた。慣れた足取りで立ち止まり、ためらいもなくインターホンを押す。

ピンポーン。

「ういー……」

スピーカー越しに返ってきたのは、ひどく気の抜けた男の声だった。眠気を隠す気もない、だらしない返事に、玲奈は思わず眉をひそめる。

「ういーじゃないわよ。何時だと思ってるのよ」

呆れを隠さず言い返すと、インターホンの向こうからは、やはり面倒くさそうな声が続いた。

「いやー、昨日は丸山たちとFPSやってたら夜中になっちまってさ。あんま寝てねえのよ」

寝不足なのは声だけで十分伝わってくる。それでも玲奈は同情する気にはなれず、小さく息をついた。

「……まったく。とりあえず起こしたから、私は先に行くわよ」

そう言って踵を返しかけた瞬間、向こうから慌てた声が飛んでくる。

「いや、すぐ行くって! ちょっと待てよ」

その切羽詰まった調子に、玲奈は足を止めた。仕方ない、という気持ちを隠しもしないまま、玄関前で待つ。朝の廊下はひんやりとしていて、静かな空気の中に遠くの生活音がかすかに混じっていた。

待つこと五分。

ガチャリ、とようやくドアが開く。

そこから現れたのは、髪をぼさぼさに乱したままの少年だった。制服は着ているものの、ネクタイは曲がり、いかにも慌てて出てきましたという格好だ。眠そうな顔のまま、それでもなんとか外に出てきたらしい。

「全く……少しはゆっくりさせてくれよー。ほんと容赦ないな、玲奈は」

神崎隼人は欠伸混じりにそうぼやきながら、だるそうな手つきで扉を閉める。寝起きそのままの気だるさが全身からにじんでいた。

「容赦ないって、朝の時間を削ってまで起こしに来てあげたんだけど?」

玲奈はじろりと隼人を見やる。感謝されるどころか文句を言われる筋合いはない、という気持ちがそのまま声に乗っていた。

「別に俺が頼んだわけじゃないしなー」

隼人は悪びれる様子もなく、いつもののんびりした口調で返す。その気の抜けた態度に、玲奈のこめかみがぴくりとしそうになる。

「海外出張でいないあなたの両親が心配して、ウチのお母さんに頼んだんでしょ? 少しはご両親の気持ち考えなさいよ」

玲奈は憤慨しながら言った。朝からわざわざこうして足を運んでいるのも、結局は放っておけない大人たちの事情があるからだ。だが、隼人はそれを真正面から受け止めるでもなく、軽く肩をすくめるだけだった。

「たくっ……うちの親も、もうガキ扱いしなくていいのにな」

ぶつぶつとぼやきながら、隼人はようやく自分の制服に意識を向ける。曲がったネクタイを適当に直し、襟元を整えるその手つきは、本人の性格がよく出ていてどこか雑だ。玲奈はその様子を見て、またひとつため息をこぼした。

「ガキ扱いされる理由、自分で気づいたら?」

呆れ半分、皮肉半分で言うと、隼人は返事らしい返事もせず、気まずさをごまかすように視線を逸らした。

そして二人は、いつものように並んで歩き出した。


朝の通学路を、玲奈と隼人は並んで歩いていた。二月の朝の空気はまだ冷たく、吐く息がうっすらと白くなる。住宅街の道には通学や通勤へ向かう人の気配が少しずつ増え始めていて、静かだった朝の街もゆっくり目を覚ましつつあった。高校までは、マンションから徒歩で十五分ほど。長すぎず短すぎもしないその道のりは、二人にとってすっかり見慣れた日常の一部になっている。

「そういえば、丸山くんたちとゲームしてたって言ってたけど、数学の課題はちゃんとやったの?」

玲奈が何気ない調子でそう尋ねると、隼人は一拍置いて「あっ」と間の抜けた声を漏らした。いかにも今思い出しました、という反応だった。

「……やべー。最初の方しか手つけてねえわ」

隼人は額に手を当て、困ったように苦笑する。だが、その表情には切羽詰まった焦りというより、やってしまったな、という軽さのほうが強い。玲奈はそんな幼馴染に、じとっとした呆れの視線を向けた。

「……あんたって本当に……はあ……もういいわ。何か言うのも疲れた……」

言いながら、玲奈は小さくため息をつく。昔からこうだ。注意しても、呆れても、隼人はどこかのんびりしていて、危機感があるのかないのか分からない。何度も見てきたやり取りだけに、いまさら本気で怒る気力も湧いてこない。半ば諦めるような気持ちで、玲奈は前を向いた。

すると、その空気を突き破るように――

「おっはよーー!! お二人さん!」

明るく弾んだ声が後ろから飛んできた。勢いよく駆け寄ってきたのは、桐生夏希だった。朝の冷たい空気の中でも、その声だけは妙にあたたかく、周囲までぱっと明るくするような勢いがある。

「おう、夏希、おはよう!」
「おはよう、桐生さん」

隼人と玲奈がそれぞれ挨拶を返す。夏希はにこにことした笑顔のまま二人の横に並び、そのまま自然に歩調を合わせた。

「しかし夏希、お前家の方向違うのに、しょっちゅう一緒になるよな?」

隼人が不思議そうに首を傾げてそう言うと、夏希の肩が一瞬ぴくりと揺れた。分かりやすいほどの反応に、玲奈は思わず横目でその様子をうかがう。

「い、いや! ロードワークも兼ねてね! この辺まで毎朝走ってるんだよ!」

夏希は少し頬を赤くしながら、慌てたように言葉を返した。勢いよく答えてはいるものの、どこか誤魔化しきれていない。早口になった声と、わずかに泳ぐ視線がその動揺をそのまま表していた。

「なるほどな!」

隼人はそれをそのまま受け取り、ひとり素直に納得したようにうなずく。その反応があまりにも迷いなくて、玲奈は内心で呆れ混じりに息をついた。

(いや、あんたに会いたくて来てるんでしょ……)

鋭くツッコミを入れながらも、もちろん口には出さない。夏希の分かりやすさも、それにまったく気づいていない隼人の鈍さも、なんともこの二人らしいと思う。玲奈はそんなやり取りを横で見ながら、少しだけ肩の力を抜いた。

そうして三人で話しながら歩いているうちに、目の前には学校の校門が見えてきた。見慣れた朝の景色が、いつもの一日の始まりを静かに告げていた。